平家落人伝説
木屋平氏(松家氏)は四国に落ちていった平家の落人の子孫ということになっています。しかし、似たような伝説は全国に存在しており、その信憑性は?と言われるとかなり辛いものになってしまいます。一般的に平家の落人伝説がどのように考えられているかを下に記しておきます。やっぱ・・・木屋平氏って忌部氏の一派かもしれないですね・・・(^^;)
平家の落人伝説(「日本伝奇伝説大辞典」より)
源平の戦いで敗れた平家の落人が山間僻地に隠れ住む過程を伝える伝説。内容には大きな違いがあるが、平家の伝説の地と称される個所が全国に120ヶ所ほどある。北限は岩手県の三陸海岸沿いの村、南限は鹿児島県奄美大島で、その中でも南九州と四国山脈と鳥取県に伝説が多く散在している。平家の落武者が出た最初は寿永元年(1182)木曾義仲が倶利伽羅峠で平家の軍を破ったときで、以後平家が西海に落ちていくに連れ落人の数も増加し、寿永4年の屋島の戦いの後は四国へ、壇ノ浦の平家没落の後は南九州と山陰方面に逃れたという。事実の裏づけは取れにくいが、伝説地の全てに共通するのは安徳天皇、平知盛、経盛、維盛、清経、資盛などの著名な人間が落人となって住みついたという考えで、無名の落武者が住んだという伝説は皆無に等しい。ここに貴種流離譚の典型を見ることができる。
これらの伝説地を一般に平家谷とよんでいるが、そこに最初に住みついた人々は『平家物語』や『源平盛衰記』などの文献に接することはなく、秘境に入ってきた高野聖や系図師たちが源平の争乱について語り伝えてくれたものを、地理や地形と結びつけてアレンジし、貴種の子孫であるという幻想によって血族共同体の結束を図った名残である。平家谷には「由来書」や「系図」類も残されているが(それらのほとんどは江戸中期以降のものであるが)、資料を保存してきた家が山間僻地の支配層であったこともあり、それが権威の象徴のように扱われてきたことは注目に値する。
この平家落人伝説は「平家物語」や「源平盛衰記」からヒントを得たと考えられるが、そこで描かれた武士たちの敗北のイメージや仏教からくる無常感を否定しないまでも、物語と事実は違うのだと、その武士たちが生命を保ってきたことを主張しているところに特徴がある。これは、いさぎよく死ぬことを美徳とする発想や観念に対して、生き延びながら往時を回想するという隠者の美意識に立つものであった。このことは伝説作者たちの存在と位置を暗示するものと言えよう。また、それは人々が平家谷のような秘境にロマンチックな憧れをつなぐ要因ともなっている。そういう外部の目と対応しつつ、平家谷の住人たちが貴種への幻想に酔ってきたと見ることもできる。
史実としては壇ノ浦の戦いで平家は潰滅したとなっており、下関の赤間神宮の西隣に安徳天皇を葬ったと言う阿弥陀寺陵もあり、近くに有盛、清経、資盛、教経、経盛、知盛、教盛らの墓碑も「七盛塚」と呼ばれて今もあるが、伝説はこれらの人物の生存を伝えてきた。安徳天皇は四国の徳島県祖谷で16歳まで生きたといい、高知県横倉山では23歳、佐賀県山田郷では43歳、鳥取県姫路では10歳、同県中津では17歳、鹿児島県牛根麓では13歳、同県硫黄島では64歳まで生きたとされてきた。特に『硫黄大権現宮御本縁』と言う古記録には、壇ノ浦で二位尼に抱かれて入水したのは安徳天皇の替え玉であり、その犠牲になったのが大納言時房の7歳の娘であったと書かれている。硫黄島は別名鬼界島とも言うが、そこは俊寛の流された土地なのに、現地では俊寛伝説は『平家物語』や能の「俊寛」で描かれた範囲を超えていない。しかし安徳天皇の皇居だったという「黒木御所」は今日長浜家が守っていて、その当主を「長浜天皇」と呼び慣わしてきたほどで、平家伝説の方が俊寛伝説より親しみをもたれていたことが分かる。
安徳天皇にまつわる伝説では地名に特色が出ている。祖谷では平国盛の隠れていることを知って天皇がその地にやってきたとなっているが、皇居を営んだ場所を「京上」と呼び、そばを流れる川を「宇治川」と命名し、深い淵を「天皇淵」といい伝えてきた。山陰の姫路では、一行に女子供も混じっていて谷へ下るうちに夜が明けたので「明野辺」という名をつけ、周囲の眺望が良かったのでそこを都にしたいともらしたことから「私都谷」といい慣わし、近くの荒船山に桜見物に行ったおり天皇が急死したため、その辺を「崩御が平」と呼ぶようになったという。
平家伝説の地として特に有名なのは九州山脈の東西にある宮崎県の椎葉と熊本県の五家荘で、前者には源氏の追討軍の那須大八郎宗久と平家の鶴富姫との恋物語があり、後者には平清盛に関する伝説が混在している。『椎葉山由来記』には那須大八郎宗久が日向にはいって山の民に愛情を注いだことが書かれ、それを全体に鶴富姫との恋が芽生えたとしている。「恋仲となりて末永く安住する確約をせしが、鎌倉殿より帰国の命あり、すでに懐妊の姫に天国丸の短刀を与えて『其方懐妊の覚えあり、男子ならば本国下野へ差寄越すべし。女子ならば遣わすに及ばず』と言い残して住みなれた椎葉を後に鎌倉さして出立せり。鶴富姫は、月満ちて女子を産み、後婿を迎えて那須下野守と名のらせしが那須の祖先にして、その同族永く椎葉を支配せり」というが、この伝説は元和5年(1619)の「椎葉山騒動」が数年がかりで解決した後にできたものと推定される。血なまぐさい騒動で人々が疲弊していたためにそこから抜け出させる方便として恋物語が用意されたとみるべきであろう。椎葉には「稗つき節」という民謡があってこの平家伝説を歌いこんでいるが、この部分は近年挿入されたもの。
五家荘は五つの集落のうち久連子・葉木・椎原の三つが平家の落人の住んだ所といわれているが、久連子には「由来記」という巻物があって清経が豊前国柳浦で入水したと見せかけ豊後国の緒方氏を頼って隠れたことやその後久連子に来て土着したことが書かれており、椎原の側の伝説では清経が緒方氏の女と結ばれ、その曾孫にあたる緒方盛幸・同近盛・実明が五家荘に住みつき、それぞれ久連子・椎原・葉木の先祖となったという。しかし久連子側の記録には緒方盛幸なる人物はいない。こうした矛盾を抱えつつも、伝説同士は平和共存してきた。
また平維盛のように屋島の戦い寸前に逃れて高野山に入った落人の場合は、高野聖たちによって潤色された。高野山にいた滝口入道の許へ石堂丸などを伴ってきた維盛は入道の影響から熊野詣でをし、那智川の海に注ぐ松の木を削って名籍を書きつけ、沖合いに船を漕ぎ出して入水したと『平家物語』は書いているが、滝口入道は彼を恋慕する横笛という女性も架空の人物であるから、伝説は入水が偽装工作であったとして維盛を生存させ色川郷に隠れたとする。そして戦うことを放棄し仏門に帰依した維盛とその妻との愛情の深さを、入水ではなく秘境に生きる形で持続させようとした。世俗から抜け出せない唱導文芸の担い手たちの心情がこの伝説に仮託されているとみることができる。
平家落人伝説は能登の時国家のように地方経済に中核をなす家と結びつくのは例外中の例外で、ほとんどは人里はなれた秘境に育ったものであるから、『平家物語』に関連してつくられた能・文楽・歌舞伎とは直接結びついていないが、「義経千本桜」という文楽の名作や能の「船弁慶」などにその平家の面々が生者として生き残り、亡霊として活躍する点でわずかに交錯のあとがみられる程度である。『平家物語』の文体が語り物として琵琶法師などの口から人々に伝えられるのに対して、平家落人伝説の内容は美的な文体に書けていることもあって他の地域へ波及することはできなかった。その分だけ秘境の人々の独自な心の支えとなったとみることができる。
〔松永伍一〕