木屋平氏から松家氏へ-Ver.2
鎌倉時代嘉暦2年(1327)の三木家文書に「コヤ平の太田河成」と記述があり、当時のコヤ平は大浦名の一集落を指し、現在の森遠の前称であった。太田河成とは、穴吹川沿いにあった広い水田が増水時に水害を受ける場所である。
旧木屋平村の位置(現在は美馬市の一部) |
平家落人伝説これは木屋平村に伝わる伝承です。平家水軍の指揮を取っていた平知盛の子・知忠は、平知経・平國盛(平教経の別名?)と共に安徳天皇を奉じて壇ノ浦の前夜に四国に脱出した。その後、森遠と言う土地にたどり着き、その地に粗末な安徳天皇の行在所を建て「小屋の内裏」と呼んだ。その後、安徳天皇は平國盛等祖谷山平氏に迎えられて、祖谷へ行幸されたので、平知経は、この「小屋の内裏」を城塞のように築きなおし、名を「森遠城」と改め、自分の姓も平氏の平と小屋の内裏の小屋を合わせて、「小屋平(のちに木屋平)」とした。東祖谷山村には、現在でも平國盛の子孫・阿佐家の平家屋敷と平家の赤旗がある。 |
忌部の有力者の一人が入植したのは、のちに小屋平氏が所有した森遠城の近辺であろうと推定される。伝承によると平安初期に三木山の忌部の長者・三木氏の次男が、5人の者を従えて当地に入り、5人は下名・弓道・森遠・谷口・川上の5ヶ名に住し、三木氏の次男は谷口に居を構えて大浦氏を名乗って開発を行った。
森遠付近は緩やかな傾斜地や窪地が広がり、絶好の日照条件と数ヶ所から清水がわき、小谷も流れて入植者なら真っ先に居住する好条件の場所であった。
鎌倉時代に小屋平氏はこの地を入手して本拠地とし、勢力を伸ばし、やがて衰退した大浦氏に代わって大浦名を支配下に置くこととなる。
南北朝時代に入り、小屋平氏はこの土地に君臨するようになる。室町時代の初期の頃から「大浦名」を「木屋平名」と改称し、「コヤ平」の地を「森遠」と呼んだと思われる。
木屋平村 |
森遠城からの風景 |
阿波忌部氏天日鷲命(あまのひわしのみこと)
阿波忌部氏
三木氏
大浦氏
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文治元年 (1185) | ■壇ノ浦の戦い | |
平 知経 | 小屋平氏家祖。 安徳天皇と共に森遠の土地に来たとの伝説を持つ人物。 平知盛の子、平清盛の孫と伝えられる。 | |
建久3年 (1192) | ■鎌倉幕府開府 | |
平 知直 平 知親・越前守 |
小屋平(木屋平)を姓とする。 徳島市の松家氏が蔵する「松家氏系譜」によると初代、2代目。 宗尊親王(1252年〜1266年 鎌倉幕府6代将軍)に仕え、三百貫の土地を領地とする。 | |
小屋平重知・伊賀守 | 3代目。 | |
小屋平知政・越前守 | 4代目。 | |
小屋平清通 ・右近左衛門 |
後に森藤清通・越前守と名乗る。 ※森藤(森園)清通、蔵人は、松家氏系譜によると5代目に当たる人物。「森藤(しんとお)」と言う姓は「森遠」に由来している。現在でも松家氏と密接な関係のある新藤(しんどう)氏の人物との説もある。6代目森藤蔵人も同様。 |
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元弘1年 (1331) | ■南北朝分立 | |
正平2年(1347) 貞和3年 | 森藤蔵人 | 6代目。足利尊氏に従う。 ※姓の違いは小屋平清通を参照のこと。 |
観応元〜2年 (1350〜51) | ■観応の擾乱 幕府が動揺し、阿波の南朝勢力の活動が活発になる。 | |
正平6年(1351) 観応3年 | 森藤蔵人 | 京都四条大宮合戦の際、討死する。 |
正平7年(1352) | 細川頼之が北朝の阿波守護となる。 | |
正平9年(1354) 9月23日 |
小屋平五郎 小屋平弥三郎 三木左衛門尉 |
南朝方から「この度の戦の働きは天子においてご満足である。」という内容の軍忠状をもらう。 阿波(徳島県)の南朝方が東の拠点の一宮城にこもり、北朝方と攻防戦を繰り返していた時であり、小屋平・三木氏は一宮城の援軍として活躍していたのであって、木屋平村内での戦いではなかった。 |
正平16年(1361) 7月21日 | 大浦氏が南朝方より軍中状をもらう。 大浦氏も南朝方の武将として三木・小屋平氏らとともに戦っている。 | |
正平17年(1362) | 一宮氏が北朝に降伏。 | |
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応安5年(1372) | 小屋平知氏 | 北朝方(細川頼之)より、降伏の見返りに大浦内地頭国衙二ヶ名を預けおく書状を受ける。 北朝に降伏後、大浦山の全支配権を獲得。 |
元中3年(1386) | 三木氏も小屋平氏降伏の14年後(1386)に北朝から所領安堵をうけて降伏 しかし実際に活動が止まったのは、小屋平氏の北朝方帰順の頃である。 | |
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小屋平知氏 新五左衛門 | 細川頼之(1329〜1392)に従った。 (1352年京都で南軍と戦って没した父頼春の阿波守護職を受け,領国経営につとめたが,その軍事的才能を高く評価した幕府は,1356年中国地方に猛威を振う足利直冬追討を頼之に命じた。直冬党を討ち,また1362年の前執事細川清氏追討をとおして,足利将軍のいっそうの信頼をえ,頼之は四国全域の守護職を兼ねるにいたった。) | |
明徳3年(1392) | ■南北朝統一 | |
小屋平知治・伊賀守 | 細川詮春に従った | |
小屋平知勝・頼母介 | 細川持之(1400〜1442)に従った。 (管領職に就任し『永亨の乱』の対応に当たる。) | |
小屋平知詮・修理介 | 細川成之(1434〜1511)に従った。 (宝徳元年(1449)阿波・三河守護を継ぎ、応仁の乱には東軍に属した。 文明5年(1473)三河に代り讃岐守護を兼ねる。) | |
小屋平知資・掃部頭 | 細川政之(1455〜1488)に従った。 (阿波や讃岐の守護であった細川成之の長男。 1478年に父から讃岐守護を譲られた。阿波の反乱鎮圧にも尽力。) |
南朝文書
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阿波山岳武士
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天文21年(1552) | 木屋平知満 | 阿波守護の細川持隆が家臣の三好義賢に討たれる。 阿波の実権は三好家に移るが、知満は三好家に反感を持ち、従わなかった。 ※解説:阿波三好氏は謀反によって混乱時期にあった阿波の統治にさほど注意せず、もっぱら畿内の三好氏を支援するためにたびたび大軍を率いて遠征を行っていた。そのため生産力の低い山間部の農村では租税徴収が過重となっていた。そのため山間部の土豪たちは三好氏に反発を強めていた。 |
天正元年(1573) | ■室町幕府滅亡 | |
天正3年(1575) | 土佐の長宗我部元親は先年、末弟島弥九郎が阿波海部郡の柳越前で殺害されたのを機に、弔い合戦の大義名分を掲げて海部郡に攻め入って、阿波侵略の途についた。 | |
天正7年(1579) | 木屋平知保 (知満の子) |
長宗我部軍に加わって三好軍と戦い勝利し、馬・大身槍・茶釜などを拝領した。 ※解説:元親の土豪対策は、新たに領有した土地は、その戦績に応じて一領具足たちの知行地として与えることを約束するもので、そうした政策が阿波山間部土豪たちの一領具足をふるい立たせることになった。 |
天正10年(1582) | 長宗我部元親は一宮長門守に謀反の志ありとして一宮城を攻撃。 木屋平氏が水の元を断つ策を進言して成功し一宮城は落城した。 これを機に木屋平氏は名西郡に攻め入って金泉氏・栗飯原氏らを降ろして名西山分を占拠したが、豊臣秀吉の四国平定で蜂須賀氏の入国となり、領地を返還した。 | |
天正13年(1585) | 木屋平知隆 | ■豊臣秀吉の四国征伐(蜂須賀正勝、家政の父子が活躍) 知隆が蜂須賀氏入国ご順国の際にお目見えして一刀腰を拝領した。 |
木屋平知保 木屋平上野介 |
蜂須賀氏入国の際に祖谷山・仁宇などの元親の恩を受けた侍たちが背いて討伐された時、木屋平氏の一族上野介も反徒に加わり、討手の知保と同族対立となったが、知保の説得で上野介も降伏した。 ※解説:山間部の伝承によると、蜂須賀氏入国の際、土豪たちが土佐勢(長宗我部軍)を国境まで見送り、涙を流して別れを惜しんだという話が残っていたりする。それだけに山間部の土豪たちは、在来の在地における卓越した支配体制をそのまま長宗我部氏によって安堵されていたし、一部の土豪たちは、土佐方に呼応して戦うものまであった。蜂須賀氏は阿波入国後6年間に及ぶ山間土豪の一揆に苦しむことになった。 | |
天正中 | 木屋平長太夫 | 渋谷安太夫に従って、仁宇山の土豪を討つという功績があり、五十石を賜り、代々里正(庄屋)となった。 |
慶長5年(1600) | ■関ヶ原の戦い | |
慶長8年(1603) | ■江戸幕府開府 | |
慶安元年(1648) 12月20日 | 木屋平知継・知康 | 藩主・蜂須賀忠英から松家の姓を賜って小高取に取り立てられ、五十石の知行地を与えた。 以来木屋平姓を廃して松家となり、知経以来継承してきた「知」の字は彼を最後に廃している。 これにならって一族6家も松家と称した。 |
万治2年(1659) 12月12日 | 森遠城の跡地に森遠名の鎮守八幡神社を建立して、忌部族の祖神天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祀った。 |
森遠神社の鳥居 |
森遠神社 |
森遠神社 |
家紋:丸に五三の桐