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木屋平氏から松家氏へ-Ver.2


◆木屋平と言う名称の由来

鎌倉時代嘉暦2年(1327)の三木家文書に「コヤ平の太田河成」と記述があり、当時のコヤ平は大浦名の一集落を指し、現在の森遠の前称であった。太田河成とは、穴吹川沿いにあった広い水田が増水時に水害を受ける場所である。

四国地図
旧木屋平村の位置(現在は美馬市の一部)
コヤ平の地名の興りは・・・ の両者、つまり地名が先か姓が先かで論議が一致しない。異説では、 とあるが、あくまで後年に付け加えられた伝説であり、歴史とは程遠い。
しかし、小屋平氏は平知盛(たいらのとももり)の末裔といわれ、それを証明するべく祖先の知盛の「知」の一字を継承して広く世に示し、武門の誇りとしていた。
家祖知経より、知直、知親、重知、知政、知氏、知治、知勝、知詮、知資、知満、知保、知隆、知継、知康 など、鎌倉時代初期から江戸時代の初期まで「知」のつく名が続いている。
戦国の武将が源平の子孫であることを重要視したように、小屋平氏も権威の象徴として平家の子孫であることを利用したと考えられる。

平家落人伝説

これは木屋平村に伝わる伝承です。平家水軍の指揮を取っていた平知盛の子・知忠は、平知経平國盛(平教経の別名?)と共に安徳天皇を奉じて壇ノ浦の前夜に四国に脱出した。その後、森遠と言う土地にたどり着き、その地に粗末な安徳天皇の行在所を建て「小屋の内裏」と呼んだ。その後、安徳天皇は平國盛等祖谷山平氏に迎えられて、祖谷へ行幸されたので、平知経は、この「小屋の内裏」を城塞のように築きなおし、名を「森遠城」と改め、自分の姓も平氏の平と小屋の内裏の小屋を合わせて、「小屋平(のちに木屋平)」とした。
  • 美馬市(旧木屋平村)のホームページ

  • 東祖谷山村には、現在でも平國盛の子孫・阿佐家の平家屋敷と平家の赤旗がある。
  • 三好市(旧東祖谷山村)のホームページ


  • ◆木屋平村森遠

    忌部の有力者の一人が入植したのは、のちに小屋平氏が所有した森遠城の近辺であろうと推定される。伝承によると平安初期に三木山の忌部の長者・三木氏の次男が、5人の者を従えて当地に入り、5人は下名・弓道・森遠・谷口・川上の5ヶ名に住し、三木氏の次男は谷口に居を構えて大浦氏を名乗って開発を行った。

    森遠付近は緩やかな傾斜地や窪地が広がり、絶好の日照条件と数ヶ所から清水がわき、小谷も流れて入植者なら真っ先に居住する好条件の場所であった。

    鎌倉時代に小屋平氏はこの地を入手して本拠地とし、勢力を伸ばし、やがて衰退した大浦氏に代わって大浦名を支配下に置くこととなる。

    南北朝時代に入り、小屋平氏はこの土地に君臨するようになる。室町時代の初期の頃から「大浦名」を「木屋平名」と改称し、「コヤ平」の地を「森遠」と呼んだと思われる。

    木屋平村地図
    木屋平村
    森遠城からの風景
    森遠城からの風景

    阿波忌部氏

    天日鷲命(あまのひわしのみこと)

    • この神は、開運・開拓・殖産の神として崇められている。
    • 神話で知られているのは天照大神が天之岩戸に入られたとき岩戸の前で神々の踊りがはじまり、この神が弦楽器を奏でると弦のさきに鷲が止まった。多くの神々が、これは世の中を明るくする吉祥をあらわす鳥といってよろこばれ、この神の名として鷲の字を加えて、天日鷲命とされた。
    • この命は、忌部氏の祖として、阿波の開発・殖産に功のあった神で、今日、徳島県麻植郡山川町に残る伝承に、紙の祖神として山川町高越山に高越神社としてまつられている。

    阿波忌部氏

    • 忌部とは後に斎部とも書かれたように、神祇祭祀に携わる部民のことである。
    • 天日鷲命の子孫
    • 213年、阿波忌部の始祖・千波足尼が粟国の国造りを始める。
    • 4世紀頃、忌部氏が粟国を治めるようになる。
    • 主な阿波忌部氏としては、三木氏、忌部神社の祭祀に携わった麻殖氏、笠井氏がある。

    三木氏

    • 阿波忌部氏の直系
    • 南北朝時代には、剣山を中心に山岳武士として勢力を持っていた。
    • 45通の中世文書が残っている。
    • 天皇即位後の大嘗祭(だいじょうさい)に御衣御殿人(みぞみあらかんど)として麁服を貢進する役に携わってきた。その姓も貢、御調に由来している。
    • 住宅は武家の系譜をひく家の遺構として価値が高く、1976(昭和51)年2月、国重文に指定された。現在でも28代当主が屋敷を守っている。
    • 三木氏の主な支配地域であった三ツ木村は明治22年に、川井村、木屋平村と合併し、現在の木屋平村となっている。
    文化財・三木家(旧木屋平村)
    文化財・三木家(旧木屋平村)

    大浦氏

    • 三木氏の分家と伝えられ、もともと大浦名(木屋平)を治めていた。
    • やがて衰退し、大浦は小屋平氏が支配するようになる。


    ◆鎌倉時代の小屋平氏

    文治元年
    (1185)
    ■壇ノ浦の戦い
    平 知経 小屋平氏家祖。
    安徳天皇と共に森遠の土地に来たとの伝説を持つ人物。
    平知盛の子、平清盛の孫と伝えられる。
    建久3年
    (1192)
    ■鎌倉幕府開府
    平 知直
    平 知親・越前守
    小屋平(木屋平)を姓とする。
    徳島市の松家氏が蔵する「松家氏系譜」によると初代、2代目。
    宗尊親王(1252年〜1266年 鎌倉幕府6代将軍)に仕え、三百貫の土地を領地とする。
    小屋平重知・伊賀守 3代目。
    小屋平知政・越前守 4代目。
    小屋平清通
     ・右近左衛門
    後に森藤清通・越前守と名乗る。
    森藤(森園)清通、蔵人は、松家氏系譜によると5代目に当たる人物。「森藤(しんとお)」と言う姓は「森遠」に由来している。現在でも松家氏と密接な関係のある新藤(しんどう)氏の人物との説もある。6代目森藤蔵人も同様。


    ◆南北朝時代の小屋平氏

    • 小屋平氏が歴史の舞台におどり出たのは南北朝の戦乱(1331〜1392)であるが、その戦力は急に養えるものではなく、鎌倉時代から勢力を拡大維持したのであろうと思われる。
    • 南北朝期の戦乱(1331〜1392)に、阿波の山岳武士たちは北朝方の守護細川氏に従わず、南朝に忠節を尽くして北朝方と戦った。
    • 小屋平氏は、同じく忌部氏の流れをくむ三木氏とともに、南朝のために40年余にわたって活躍した。この間に両家とも南朝および阿波の南朝方の栗野三位中将某から、多数の所領安堵状や宛行状を与えられている。
    • 阿波山岳武士は、名東郡一宮城などを東方の拠点にして細川軍と抗争をくり返した。
    元弘1年
    (1331)
    ■南北朝分立
    正平2年(1347)
    貞和3年
    森藤蔵人 6代目。足利尊氏に従う。
    ※姓の違いは小屋平清通を参照のこと。
    観応元〜2年
    (1350〜51)
    ■観応の擾乱
    幕府が動揺し、阿波の南朝勢力の活動が活発になる。
    正平6年(1351)
    観応3年
    森藤蔵人 京都四条大宮合戦の際、討死する。
    正平7年(1352) 細川頼之が北朝の阿波守護となる。
    正平9年(1354)
    9月23日
    小屋平五郎
    小屋平弥三郎

    三木左衛門尉
    南朝方から「この度の戦の働きは天子においてご満足である。」という内容の軍忠状をもらう。
    阿波(徳島県)の南朝方が東の拠点の一宮城にこもり、北朝方と攻防戦を繰り返していた時であり、小屋平・三木氏は一宮城の援軍として活躍していたのであって、木屋平村内での戦いではなかった。
    正平16年(1361)
    7月21日
    大浦氏が南朝方より軍中状をもらう。
    大浦氏も南朝方の武将として三木・小屋平氏らとともに戦っている。
    正平17年(1362)一宮氏が北朝に降伏。
    • 南北朝末期には圧倒的な勢力の北朝方に、東方の城が次々と落城。
    • 阿波の山岳武士で残るのは三木・小屋平氏を始め祖谷山の武士や山岳の小城だけとなり、孤立化する。
    応安5年(1372)小屋平知氏北朝方(細川頼之)より、降伏の見返りに大浦内地頭国衙二ヶ名を預けおく書状を受ける。
    北朝に降伏後、大浦山の全支配権を獲得。
    元中3年(1386)三木氏も小屋平氏降伏の14年後(1386)に北朝から所領安堵をうけて降伏
    しかし実際に活動が止まったのは、小屋平氏の北朝方帰順の頃である。
    • 以後、小屋平氏は細川家に従う。
    • 南北朝〜室町期を通じて三木氏の所領は、三木山、中村山の一部、河井山の一部であった。一方、小屋平氏は小屋平(旧大浦)・河井の大半であった。つまり三木氏・小屋平氏の支配地域は現在の木屋平村とほぼ一致する。
    小屋平知氏
     新五左衛門
    細川頼之(1329〜1392)に従った。
     (1352年京都で南軍と戦って没した父頼春の阿波守護職を受け,領国経営につとめたが,その軍事的才能を高く評価した幕府は,1356年中国地方に猛威を振う足利直冬追討を頼之に命じた。直冬党を討ち,また1362年の前執事細川清氏追討をとおして,足利将軍のいっそうの信頼をえ,頼之は四国全域の守護職を兼ねるにいたった。)
    明徳3年(1392)■南北朝統一
    小屋平知治・伊賀守細川詮春に従った
    小屋平知勝・頼母介細川持之(1400〜1442)に従った。
     (管領職に就任し『永亨の乱』の対応に当たる。)
    小屋平知詮・修理介細川成之(1434〜1511)に従った。
     (宝徳元年(1449)阿波・三河守護を継ぎ、応仁の乱には東軍に属した。
     文明5年(1473)三河に代り讃岐守護を兼ねる。)
    小屋平知資・掃部頭細川政之(1455〜1488)に従った。
     (阿波や讃岐の守護であった細川成之の長男。
     1478年に父から讃岐守護を譲られた。阿波の反乱鎮圧にも尽力。)

    南朝文書

    • 木屋平村には、今でも南北朝期〜戦国期の中世文書が残っている。(三木家文書45通、松家家文書15通)
    • 「もとどりの綸旨(りんし)」は極薄の白紙を使った極小の文書で、三木氏へのものは縦7cm横9cm(1通)、小屋平氏へのものは縦8cm横11cm(3通)であり、髷の中に忍ばせたり、笠の裏やひもに巻き込んで運んだと言われる。
    • 「軍中の次第、聞食され了る云々。正平9年(1354)9月23日。小屋平五郎館。」
    • 「度々の合戦、忠節を致すの由、聞食され了る。最も神妙の旨、天気・この如し云々。正平16年(1361)7月21日。少納言判。大浦兵衛尉館。」
    • 「阿波国種野山大浦内地頭箇貳名事。お方に参り、忠節を致すにより、領し置かる所成。先例を守り沙汰を致すべきの状・件の如し。慶安5年(1672)11月日、武蔵守判。小屋平新左衛門尉殿、」
    • 木屋平村民族資料館

    阿波山岳武士

    • 吉野川流域の平野武士に対して、剣山を中心とする四国山脈の山間に住する武士を指す。
    • 戦前の一宮松次氏の研究により、南北朝時期に南朝側について北朝方の細川氏をの大きな脅威となったと言われている。また、その資料として南朝文書(菅生文書、三木文書、松家文書、小野寺文書、得善文書、西山文書など)が残されている。
    • 近年の福家清司氏の研究では、細川氏の度重なる畿内や中国地方での軍事行動から見て、阿波国内の抵抗の規模はそれほど大きくなかったとの評価されている。


    ◆木屋平姓から松家姓へ(戦国〜江戸時代)

    天文21年(1552)木屋平知満 阿波守護の細川持隆が家臣の三好義賢に討たれる。
    阿波の実権は三好家に移るが、知満は三好家に反感を持ち、従わなかった。

    ※解説:阿波三好氏は謀反によって混乱時期にあった阿波の統治にさほど注意せず、もっぱら畿内の三好氏を支援するためにたびたび大軍を率いて遠征を行っていた。そのため生産力の低い山間部の農村では租税徴収が過重となっていた。そのため山間部の土豪たちは三好氏に反発を強めていた。
    天正元年(1573) ■室町幕府滅亡
    天正3年(1575) 土佐の長宗我部元親は先年、末弟島弥九郎が阿波海部郡の柳越前で殺害されたのを機に、弔い合戦の大義名分を掲げて海部郡に攻め入って、阿波侵略の途についた。
    天正7年(1579)木屋平知保
    (知満の子)
    長宗我部軍に加わって三好軍と戦い勝利し、馬・大身槍・茶釜などを拝領した。

    ※解説:元親の土豪対策は、新たに領有した土地は、その戦績に応じて一領具足たちの知行地として与えることを約束するもので、そうした政策が阿波山間部土豪たちの一領具足をふるい立たせることになった。
    天正10年(1582) 長宗我部元親は一宮長門守に謀反の志ありとして一宮城を攻撃。
    木屋平氏が水の元を断つ策を進言して成功し一宮城は落城した。
    これを機に木屋平氏は名西郡に攻め入って金泉氏・栗飯原氏らを降ろして名西山分を占拠したが、豊臣秀吉の四国平定で蜂須賀氏の入国となり、領地を返還した。
    天正13年(1585)木屋平知隆 ■豊臣秀吉の四国征伐(蜂須賀正勝、家政の父子が活躍)
    知隆が蜂須賀氏入国ご順国の際にお目見えして一刀腰を拝領した。
    木屋平知保
    木屋平上野介
    蜂須賀氏入国の際に祖谷山・仁宇などの元親の恩を受けた侍たちが背いて討伐された時、木屋平氏の一族上野介も反徒に加わり、討手の知保と同族対立となったが、知保の説得で上野介も降伏した。

    ※解説:山間部の伝承によると、蜂須賀氏入国の際、土豪たちが土佐勢(長宗我部軍)を国境まで見送り、涙を流して別れを惜しんだという話が残っていたりする。それだけに山間部の土豪たちは、在来の在地における卓越した支配体制をそのまま長宗我部氏によって安堵されていたし、一部の土豪たちは、土佐方に呼応して戦うものまであった。蜂須賀氏は阿波入国後6年間に及ぶ山間土豪の一揆に苦しむことになった。
    天正中木屋平長太夫 渋谷安太夫に従って、仁宇山の土豪を討つという功績があり、五十石を賜り、代々里正(庄屋)となった。
    慶長5年(1600) ■関ヶ原の戦い
    慶長8年(1603) ■江戸幕府開府
    慶安元年(1648)
    12月20日
    木屋平知継・知康 藩主・蜂須賀忠英から松家の姓を賜って小高取に取り立てられ、五十石の知行地を与えた。
    以来木屋平姓を廃して松家となり、知経以来継承してきた「知」の字は彼を最後に廃している。
    これにならって一族6家も松家と称した。
    万治2年(1659)
    12月12日
    森遠城の跡地に森遠名の鎮守八幡神社を建立して、忌部族の祖神天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祀った。


    ◆森遠城


    森遠神社の鳥居

    森遠神社

    森遠神社

    家紋
    家紋:丸に五三の桐


    参考


    最終更新日 2003.7.26