[松家氏のルーツ]
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木屋平氏から松家氏へ
- 木屋平氏の興り
松家氏がこの姓を用いるようになったのは江戸時代以降です。それ以前松家氏は木屋平氏と名乗っていたようです。この木屋平氏のルーツには三つの説があります。
- 忌部(インベ)氏の一派説
忌部氏は古代阿波(徳島県)を開拓した人々です。阿波忌部としては同じ木屋平村の三木氏が有名です。
- 敗走した平氏の一派説
源平の戦いの頃、香川県の屋島での戦いの後、多くの平氏が四国山中に敗走したとあります。
- 平知忠の子孫説
これは木屋平村に伝わる伝承です。平家水軍の指揮を取っていた平知盛の子・知忠は、平知経・平國盛(平教経の別名?)と共に安徳天皇を奉じて壇ノ浦の前夜に四国に脱出した。その後、森遠と言う土地にたどり着き、その地に粗末な安徳天皇の行在所を建て「小屋の内裏」と呼んだ。その後、安徳天皇は平國盛等祖谷山平氏に迎えられて、祖谷へ行幸されたので、平知経は、この「小屋の内裏」を城塞のように築きなおし、名を「森遠城」と改め、自分の姓も平氏の平と小屋の内裏の小屋を合わせて、「小屋平(のちに木屋平)」とした。木屋平村の名称もこれが起源であるという説がある。木屋平村と東祖谷山村の間にある剣山は安徳天皇の宝剣が埋められたという伝説にちなんで名づけられたといわれる。しかし、このような平家の落人に関する伝説は日本各地にあり、恐らく、木屋平氏の始祖?平知経は屋島の戦いの後、平國盛らと共に四国に落ちていった落人の一人であると考えた方が良いと思われる。
- 南北朝と阿波山岳武士
南北朝期の戦乱(1331〜1392)に、阿波の山岳武士たちは北朝方の守護細川氏に従わず、南朝に忠節を尽くして北朝方と戦った。木屋平村において、忌部氏の流れをくむ三木山の三木氏、森遠城の小屋平氏は、南朝のために40年余にわたって活躍した。この間に両家とも南朝および阿波の南朝方の栗野三位中将某から、多数の所領安堵状や宛行状を与えられている。阿波山岳武士は、名東郡一宮城などを東方の拠点にして細川軍と抗争をくり返した。しかし南北朝末期には圧倒的な勢力の北朝方に、東方の城が次々と落城し、残るのは三木・小屋平氏を始め祖谷山の武士や山岳の小城だけとなり、孤立化した。
いわゆるもとどりの綸旨は極薄の白紙を使った極小の文書で、三木氏へのものは縦7cm横9cm(1通)、小屋平氏へのものは縦8cm横11cm(3通)であり、髷の中に忍ばせたり、笠の裏やひもに巻き込んで運んだと言われる。
応安5年(1372)に小屋平氏(知氏)が北朝方(細川頼之)の勧めに応じて降伏し、所領は引き続き安堵されている。三木氏も14年後(1386)に北朝から所領安堵をうけて降っているが、実際に活動が止まったのは、小屋平氏の北朝方帰順の頃である。南北朝期〜室町期を通じて三木氏の所領は種野山・高越寺荘内にあり、三木山・中村山の一部、河井山の一部であった。一方、小屋平氏は小屋平(旧大浦)・河井の大半であった。
木屋平村には、今でも南北朝期〜戦国期の中世文書が残っている。
- 中世文書の例(あまり意味わかりません(^^;))
- 「軍中の次第、聞食され了る云々。正平9年(1354)9月23日。小屋平五郎館。」
- 「度々の合戦、忠節を致すの由、聞食され了る。最も神妙の旨、天気・この如し云々。正平16年(1361)7月21日。少納言判。大浦兵衛尉館。」
- 「阿波国種野山大浦内地頭箇貳名事。お方に参り、忠節を致すにより、領し置かる所成。先例を守り沙汰を致すべきの状・件の如し。慶安5年(1652)11月日、武蔵守判。小屋平新左衛門尉殿、」
- 木屋平村民族資料館
- 知氏・木屋平新五左衛門、細川頼之に従った。
- 知治・木屋平伊賀守、細川詮春に仕えた。
- 知勝・頼母介、細川持之に仕えた。
- 知詮・修理介、細川成之に仕えた。
- 知資・掃部頭、細川政之に仕えた。
- 長宗我部氏の侵略と木屋平氏
天文21年(1552)、阿波守護の細川持隆が家臣の三好義賢に討たれた時、木屋平知満は三好家に反感を持ち、三好家に従わなかった。
天正3年(1575)、土佐の長宗我部元親は先年、末弟島弥九郎が阿波海部郡の柳越前で殺害されたのを機に、弔い合戦の大義名分を掲げて海部郡に攻め入って、阿波侵略の途についた。知満の子・知保は天正7年(1579)、長宗我部軍に加わって三好軍と戦い馬・大身槍・茶釜などを拝領した。同10年(1582)11月、一宮長門守が元親に謀殺されたのを機に、名西郡に攻め入って金泉氏・栗飯原氏らを降ろして名西山分を占拠したが、豊臣秀吉の四国平定で蜂須賀氏の入国となり、領地を返還した。蜂須賀氏入国の際に祖谷山・仁宇などの元親の恩を受けた侍たちが背いて討伐された時、木屋平氏の一族上野介も反徒に加わり、討手の知保と同族対立となったが、知保の説得で上野介も降った。
- 長太夫、天正中(1573-92)、渋谷安太夫に従って、仁宇山の土豪を討つという功績があり、五十石を賜り、代々里正となった。
- 木屋平氏から松家氏へ
木屋平知隆は、天正13年(1585)蜂須賀公入国ご順国の際にお目見えして一刀腰を拝領した。その後、慶安元年(1648)12月20日、藩主蜂須賀家政は、当地の木屋平氏が名家であることを惜しんで、木屋平知継・知康に50石の知行地を与えて家臣に加え、松家の姓を名乗らせた。これにならって一族6家も松家と称した。
森遠城は取り壊されたが、万治2年(1659)にはその跡地に森遠名の鎮守八幡神社を建立して、忌部族の祖神天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祀った。その後、松家氏は明治を迎えるまで土地の庄屋として地方行政の一端を担った。
家紋:丸に五三の桐
参考
- 太田 亮「姓氏家系大辞典」角川書店
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三「角川日本地名大辞典36徳島県」角川書店
最終更新日 1999.12.18